学生時代、学校で美術やデザインの授業があった。
デッサンの授業が嫌い、デザイン史はバウハウスで止まった。
図学は必須でないこと、教科書が教授の著書でつまらなかったことで、単位を落とした。
もっぱら、演劇や映画、落語鑑賞に耽っていた。
演劇は小劇場、映画は岩波、小津あたり、落語は米朝1本だった。
付き合いもあり、小規模なギャラリーにはまあまあ出かけた。
美術館に行くのは昔からあまり好きではなかったが、学生以降で社会人になってから10年ほどはほとんど出かけなくなった。
何故嫌いになったかはよくわからないが、決定的だったのは上野で観たダリ展だったような気がする。
ダリの作品が直に観られると言うことで、ものすごく楽しみに出かけて行った。
人気の展覧会だけあって入り口から大変混んでいた。
美術館の中は、渋滞し、なかなか前に進まない。
ふっと見たら、人々はキャプション(説明文)のところで滞留しているのだ。
説明文はダリの作品ではない。
私は以前から、説明文の類は好きではない。
ダリの歪んだ時計の解説を読んだところでなんになるのだ、と思った。
せっかくのダリ作品の前には、人が少なめ、キャプションの前に人だかり、と言うおかしなことが起きていた。
そんなに興味はないが新聞販売店が持ってきたチケットできたのか、テレビでやっていたからそんなにすごいからと思ってきたのか、ダリを知らないままで来場したのかも入れない。
予習してから来て観ても楽しいかもしれない。
しかし、ダリの解説なんてなんの意味があるのだと今でも思う。
ダリを知らない人は作品を観ながら、
「あんた、ダリ?」
と、思っていたらいいのだ。
せっかく美術館に来て、ダリのキャプションを読んで、その書き手の先入観に囚われて作品鑑賞するなんて、
学芸員や評論家絵画や作品の知識に集中するのはバカらしい。
それ以来、美術館は国立近代美術館とブリヂストン美術館の常設のみになってしまった。
ギャラリーへは誘われれば行く程度、と言う状況が続いた。
それからしばらくし、転職して出張族になった。
出張はもっぱら国内だが、フリークエントフライヤーになった私は収集したポイントやクレジットカード特典で海外へ出かけるようになった。
元々、そんなに趣味もないので、何の気なしに現地の美術館や博物館へ出かけるようになった。
するとどうだろう、楽しくて仕方なくなった。
まず、キャプションで人が停滞していることがない。
子供たちは楽しそうに駆け回ったり、床に画用紙を置いてスケッチしていたりする。
老人たちは、抽象画の前で「さっぱりわからんがおもろい」みたいな話をしている。
皆がそれぞれのやり方で楽しんでいる。
その後、味をしめて現代美術館やギャラリーを観に行くようになった。
MOMAは大変な盛況だったが、MOCA(バンコク美術館)はガラガラでたまに行き交う来場者と微笑みを交換したりした。
その後、出張族を引退した後も、海外の美術館巡りは続いている。
国内の美術館への訪問も徐々に復活した。
青森へ出張した時に立ち寄った県立美術館は圧巻だったが、むしろ、棟方志功記念館が印象に残っている。
ダリ展の一件から10年は経っていたが、今のところ、キャプション渋滞には再会していない。
外タレ展覧会を避けているからなのか、キャプション族が絶滅したのかはわからない。
もちろん、柵から身を乗り出して筆致ばかり追っている手合にはまだまだ出会うが、
それも一つの楽しみ方ではある。
作品ではなく、作文を観ているよりはよっぽどマシだ。
テレワーク開始以降、平日と休日の境い目がとろけてしまってからしばらく経つ、美術館やギャラリーにあまり出かけられていない。
そろそろ、次の外出先を決めなければ、と思っている。