#主に購読用のブログ

#主に購読用の買い物と旅行、主に購読用的な生活について書きます。

青椒肉絲のクルマ遍歴0.1

f:id:Greenpepper:20210117115640j:plain

切ない理由で日産パルサーを手放した母は次のクルマを物色し始めた。

立ち直りが早いのではなく都合が悪いことは忘れてしまうのだ。

あちこちに見積を出そうとしていたが、父がトヨタ車を猛烈に推し始めた。

何があったか知らないが、クルマ購入に父が介入し始めたのだ。

決まりかけていたクルマ(見積)は振り出しに戻ることになった。

クルマ選びと並行し、殺風景なガレージというよりはカーポートも見直しとなった。

当初はオンボロの中古車を置く予定だったのだが、パルサーでのトラブルを契機に新車購入となり、クルマを雨ざらしにはできない、という考えからだ。

カーポートには新たにポリカーボネートの屋根、カーテンゲートが設置された。

そして、いよいよ我が家に新車がやってきた。

トヨタコロナT170型(前期)だ。

父による見積の見直しにより、パワーウインドーなどの快適装備は外されていた。

このクルマが実質、実家の自家用車1号になった。

よし、これで好きなだけ助手席に座ってドライブに出かけられると思ったが、その助手席には多くの場合、父が座った。

不貞腐れて右側の後部座席から母の肩越しに運転席を眺めることが多かった。

その際の後部座席はFFレイアウトで広かったことを覚えている。

このクルマで、地元のデパート、遠くの遊園地や近くの公園などいろいろなところへ出かけた。

長年、ペーパードライバーだった父も、いつのまにか自分で運転していた。

そんな平日のある日、学校から帰るとカーポートにクルマはないのに、母が家にいた。

父が会社へクルマで出かけることはない。

母は少し落ち込んでいたが、どうしたの?と聞くとなぜか機嫌が悪い。

その後、父が帰ってきて、クルマをぶつけて、修理工場送りになったことを打ち明け、一悶着となった。

トヨタコロナの前部がめちゃめちゃに壊れたらしい。

数週間後、何事もなかったようにトヨタコロナは帰還した。

その後は大きな事故や故障もなく、我が家の重要な足の一つとして活躍した。

しかし、3年目の車検時にトヨタコロナとは別れを告げることになる。

ja.wikipedia.org

イングランド・ルール(その1バベルの塔と産業道路)

f:id:Greenpepper:20210117102857j:plain

イングランド出発の前日は当時勤めていた会社の最終出社日だった。

朝、いつも通りに浜松町駅で電車を降りようとしていた。

私の背中でドスッと音がした。

後ろに立っていた女性が倒れたのだ。

「大丈夫ですか?」と聞くが返答は言葉にならない。

とりあえず浜松町駅で降りましょう、と声をかけ、近くにいた男性と二人で抱える形で電車から降ろした。近くにいた別の女性も付き添ってくれ、倒れた女性をホームの壁にもたれ掛けさせた。

ついてきてくれた女性にその場をお願いし、駅員を探すが見えるところにはいない。

ガードマンがいたので、急病人発生8号車付近へ駅員要請、と告げたところ、

「ドアが閉まりま〜す、駆け込まないでくださ〜い」と私に向かって言ってきたので、

ガードマンさん、ホームで異常発生、ついてきてください、と言ったらようやく事態を飲み込めた様で彼の持ち場を離れついてきてくれた。

倒れ込んだ女性を見て、状況を理解したガードマンは駅員を呼びに走っていった。

付き添いの女性は私に交代を求め、彼女もどこかへ走っていった。

倒れた女性は意識が戻ってきた様子で、大丈夫です大丈夫です、と繰り返していたが、顔面蒼白でとても大丈夫には見えない。

ガードマンが駅員を連れてくるのと同時くらいに付き添いの女性がペットボトルの水を持って戻ってきた。

駅員が、

「あとはこちらで対応します、ありがとうございました。」

と告げたのでその場を離れることにした。倒れた女性は財布から小銭を取り出して、水代を渡そうとしていたが、付き添いの女性は丁重に断っていた。

時間にして10分そこそこの話で、このまま会社に行けば朝礼には間に合うかどうかだった。

最終日に遅刻するのも悪い気がしたし、なんか挨拶とかあったら困るな、と勝手に想像し会社へ向かった。

なんとか会社にたどり着き執務室に入ると、朝礼は始まったばかりで異動や退職の挨拶をしていた。が、私の挨拶はとうとう最後までなかった。

まあ、ハプニング退職なので仕方ないと思った。

これまでなら、身の回りの物は次の職場へ段ボール箱で送るのだが、どうでもいいガラクタが増えてきたことと、今度の職場は引き出しがないデスクなので職場の荷物は自宅へ持って帰ることにした。

ランチは、私が採用し先に退職していた元秘書の人とエンジニアの人が有志で送別会を開いてくれた。その後、特にやることもなく、定時にまあまあな荷物で会社を上がり、自宅へ向かった。

帰りは特にトラブルはなかった、が帰宅すると問題が残っていた。

そう、荷物ができていない。

私は荷物を作るのが大の苦手だ。

手帳には持ち物リストを記載してあり、それを毎回コピーして消し込んでいく。

なんとか詰め込めば45リッターのキャリーケースにも収まるのだが、現地でワインなどを買い込むことを想定し74リッターのaceカバンにした。

日付が変わった頃、荷造りが完了した。

そこで床に入り、色々あった一日を振り返る暇もなく眠りについた。

途中、飛行機に乗り遅れる夢をみて1度は起き、浅い眠りのまま、セットしていた目覚ましよりも少し前に起きた。

なにか暖かいものを飲みつつアプリ”ジャパンタクシー“で「いつもの場所」に羽田空港国際線ターミナル行きのタクシーを呼んだ。

いつもなら5分も待てば流しが捕まる通りなのだが、朝6時前後はタクシーが少ないのか配車でも10分以上待つことになる。

この日も15分ほどかかって車が到着した。

6時前、タクシーに乗り込むといつも通り、

「青椒さま、日本交通の〇〇です、ご乗車ありがとうございます。はい、羽田空港国際線ターミナルですね、ご希望のルートはございますか?」

〇〇通りから産業道路へ入って、あとはお任せします。ラジオ、かかるならNHKをお願いします。

と告げ、車は私と同行者を乗せて走り出した。

平和島の立体交差を大森警察に向かって左に折れたら産業道路に合流だ。

この産業道路だが、もう10年は工事していると思う。

信号が多い上に工事箇所を迂回路、仮舗装や鉄板の蓋の路面で私たちのジャパンタクシーがガタガタと薄い剛性感で心細く揺れる。

これが、コンフォートならフワフワといなすところだが、このジャパンタクシーはガタガタと立て付け悪く揺れる。

(そういえば、配車アプリの名前もジャパンタクシーだった。この辺の商標関係ってどうなっているのだろうか)

いつまでも工事が終わらない産業道路が2車線から3車線になり少し走ったところで、あの看板が見えた。

「WATAMI」、この看板が見える大鳥居の交差点で1、2回の信号待ちが発生する。

この信号待ちの時に、あーこれから海外へ出かけるんだ、と言う気持ちが湧いてくる。

ここまではなんとなく、スケジュールをこなす「作業」なのだが、この交差点でこの作業が「旅行」に切り替わる気がいつもする。

産業道路から大鳥居の交差点を左折したのは6時のニュースが終わった後だった。

さあ、いよいよ羽田空港だ。

青椒肉絲のクルマ遍歴0

f:id:Greenpepper:20210116153209j:plain

私の実家には私が小学校高学年に上がる頃まで自家用車がなかった。

別に不便ではなかったし、どうしても必要なこともなかった。

ただ、おばの家には自家用車があり、いつもあちこちに出かけていて、おじの運転で助手席に座って車窓を眺めるのは電車とは違い、スリルや征服感のようなもの感じ、下車後、母に自家用車の導入をせまったりした。

あるとき、原付バイクで怪我をした母が、自動車学校へ通うと言い出した。

「2輪だからコケたりぶつかったりする。4輪なら大丈夫。」とか、そんなことを言っていた様に記憶している。

その他にも、当時母の母(祖母)の足がだんだん悪くなってきており、通院や買い物の送迎のたびにおじの手を借りるのが煩わしかった様だ。

自動車学校へ通い始めてしばらくして、実家の改築計画がにわかに動き出した。

長年、自家用車がなかった実家はガレージがなかったのだ。

大人しくガレージだけ作れば良いものを、家の増築までセットで行うことになったのだ。

父は免許を持っていたのだが、完全なペーパードライバーで自身が運転する気は全くなかった。

原付バイクで事故る母が自動車を運転することには不安があったが、私も気軽に助手席に乗って車窓を楽しめるのであればそれはそれで良いと思った。

家の工事が進み、母の教習所通いもまあまあな速度で進んでいった。

結局、増築の方が早く終わった。

ガレージはコンクリート打ちっぱなしでゲートもなかった。

この殺風景なガレージにやってきたのが、我が家での初めてのクルマになった。

それは、日産パルサーN12型系という車種だ。

実家の増改築は90年代に入るかどうかだったので、このパルサー自体は型落ち車種だった。

母の友人の旦那さんが勤めている会社が清算することになり放出された営業車を安価で購入したのだ。

フロントドア側面の社名を皆でやすりがけをして消した。

所々、やすりをかけ過ぎて塗装がない部分ができてしまったが、私には誇らしかった。

夏休みのラジオ体操をしていると母が練習がてら試運転をしているのが見えた。

が、なかなか乗車の機会が回ってこない。

実は、このクルマに私は1回しか乗ったことがない。

最初で最後の乗車は母とおば、私で試運転に付き合うと言うものだった。

なんでも母と張り合うおばはこの時までに運転免許を獲得していた。

マニュアル車のパルサーは順調に走っていた。

しかし、坂道で止まり、再度スタートをしようとするとエンストしてしまう。

母が何度やってもエンストするので、

「ねーちゃん、坂道発進もできないの?」のようなことを言いながら、おばが替わった。

が、やはりエンストし発進できない。

最後は母がなんとか発進させたが、これではどうにも頼りないと言うことになり、念のため近くのガソリンスタンドへこのパルサーを持ち込むことになった。

結果、クラッチが磨耗していてギアが入りにくい状態、坂道発進は難しいだろう、と言うことだった。

修理となると大変な金額になってしまう。

意図していたのかはわからないが、母はスクラップ同然のクルマを買ってしまったのだ

私は坂道発進の後、家の前で降ろされ、パルサーの乗車はこれで最後となった。

パルサーはスクラップ工場に送られた。

クルマを紹介してくれた母の友人ともそれから疎遠になった。

喜びと共にやってきた初めてクルマとは、切ない別れとなった。

ja.wikipedia.org

イングランド・ルール(その0:助走)

ロンドンを含むイングランド旅行を検討したのはイギリスの首相がジョンソン氏に交代したタイミングだ。

よし、Brexitを観に行こう。

ふとそう思った。

https://twitter.com/Greenpepperair/status/1153654143505932289?s=20

彼なら2019年10月末のイギリスのEU離脱EUとの合意有無にかかわらずやってくれると踏んだのだ。

過去のジョンソン氏の経歴もそうだが、私はトップギアでの彼の強引さ傲慢さを見ていた。

https://youtu.be/CoifaIEvC0Q

うむ、ボリスならやる、やってくれる、やり切るやつだ。と私は確信した。

そして、先ほどアップした記事で第一報を発信したのだった。

https://twitter.com/Greenpepperair/status/1169106288283799554?s=20

私はかなりの段階までボリスはやってくれると信じていた。

どんな逆境でも彼ならトップギアでの運転同様にフィニッシュしてくれるだろうと。

しかし、政治とはいつも思い通りにならないものだ。

https://twitter.com/Greenpepperair/status/1186831223978479617?s=20

土壇場でBrexitは延期されてしまった。

この延期よりも前に雲行きが怪しくなってきたので一時は旅行を取りやめようかとも考えたが、このタイミングを逃すと片道10時間以上のフライトで出かけるような機会が取れない気がして、一縷の望みをかけてチケットを押さえた。

二転三転が続き、参加表明いただいた方には色々とご心配をお掛けしてしまったが、飛行機のチケットは無事に手配することができた。

宿とレンタカーについては別の同行者が手配することになりそれに従うことになる。

Brexitは延期されてしまったので、ただのイングランド旅行になる、筈だった。

だが、蓋を開けてみると、出だしから予定外の想定外にぶち当たることになった。

私はそんなドタバタが待っているとは知らず、出発の3日前(2019年10月26日)には御殿場のアウトレットにいた。

私たちは10月29日の未明、ブリティッシュエアウェイズ8便に搭乗するため羽田空港に向かうことになる。

さあ、どんな旅になるのだろうか。

f:id:Greenpepper:20210116145039j:plain

 

好きな食べ物のはなし

f:id:Greenpepper:20210109190745j:plain

食べ物について、好き嫌いは少ない方だと思う。

嫌いな食べ物が少ない代わりに好きな食べ物も少ない気がする。

基本的にはなんでも美味しく食べる。

そもそも、あまり不味い食べ物のあるところには出かけないようにしている。

そんな中で、好きな食べ物の一つがチーズケーキだ。

子供の時からチーズケーキと名のつくものはなんでも食べる。

家族も私がチーズケーキ好きなことを知っているので、チーズケーキを買ってきてくれる。

でも、チーズケーキが好きでチーズケーキについてウンチクを語れるかというと、そんなことはない。

単に「好き」なのだ。

では、なぜ好きなのか。

今日、チーズケーキを食べていてふと思い出した。

それは、今を遡ること数十年前、私がまだ子供だった頃のことだ。

私の父や母は子供たちのために、ケーキを買ってきてくれることがあった。

私は一人っ子ではなかった。

いわゆる長子だったが、ケーキを選べるのは末っ子からと決まっていた。

下の子が、イチゴのショートやモンブランなどを取って、残ったのがチーズケーキだった。

当時、チーズケーキといえば、スフレかベイクドで上には何も乗っておらず、茶色い上部とカスタード色の側面のみのものだった。

私はいつも、最後にその飾りっ気のないチーズケーキを取っていた。

なんの事情からかは忘れたが、時々、私からケーキが選べる機会がめぐってくることがあった。

そんな時も、チーズケーキを選んだ。

最初はイチゴのショートなどを取るのだが、年少の兄弟が泣き出し、チーズケーキのくせに、など難癖をつけてきて、結局、「お兄ちゃんなんだから」という理不尽な仲裁で最初に選んだケーキを譲ることになり不愉快な思いをした。

この「お兄ちゃんなんだから」は私が高校の「現代社会」で相続を学ぶまで続く。

そんなことで子供時代、私が好きなケーキといえばチーズケーキということになった。

私は自身のプロフィールにチーズケーキ好きとかチーズケーキアピールなどしたことはないが、家族は私がチーズケーキ好きだと思っているし、私も今さら他のケーキが食べたいと抗弁し、またその結果、食べ慣れないケーキが美味しくなかったら嫌なので、チーズケーキ好きは撤回していない。

もう数十年、ショートケーキといえばチーズケーキを食べ続けているので、見た目でなんとなく味は予想できるし、この歳で冒険しても仕方ないと考えている。

www.cotta.jp

リコーGR3までのカメラのはなしのつづきその7

f:id:Greenpepper:20210107201852j:plain

学生時代のアルバイトで扱いが得意になったスタジオ用カメラがトヨビュー45だ。

これは、いわゆる4×5フィルム(シノゴ)を使うカメラで、アナログ写真の時代には建築や商品、集合写真などを撮影するのに使った。

もちろん、作品制作にも使えるカメラだ。

スタジオでブツ撮りをしているカメラマンのなかには、ジナーやホースマンというメーカー品を使っている人がいた。

だが、私は断然、トヨビュー45が好きだった。

理由は、他のメーカー品よりも現場で出会う台数が多く、扱い慣れていた、ということもあるが、それよりもその数の点で、壊しても替えがきくという気軽さはあちこちいじってみる好奇心を満たすのにはありがたかった。

ちなみにジナーというのはスイス製の機材で額は忘れたが気軽にこっそり触りたくなるような値段ではなかったと思う。

ホースマンは国産メーカーだったが、春休みのバイト先以外で出会ったことがなかった。

この4×5カメラだが、カメラと言っても蛇腹だけで、レンズもフィルムもついていない。

前面にレンズをつけ、後部にフィルムを装填したホルダーを入れる。

古い時代の映画とかで風呂敷みたいなのをかぶっておじさんが記念写真とかを写しているアレだ。

レンズもフィルムフォルダーもレリーズ(シャッターを押すやつ)も別売りなのだ。

バイト以外でトヨビュー45を思い出すのは学生時代の実習だ。

大学2年の必須過程の授業で建築写真があった。

ちなみに、スタジオ撮影(ブツもモデルも)は必須ではなかった。

普通のカメラでビルなど建物を下から撮ると上に行くほどとんがってしまう。

これをとんがらせずにまっすぐ写すのに必要なのがこの4×5カメラなのだ。

このカメラはレンズ面とフィルム面を左右上下に振ったり、移動させたりすることができる。

学校の貸し出し機材もトヨビューだった。

私は2年に上がる前の春休みに散々トヨビューをいじり倒していたし、建物の撮影を何度も見ていた。

サクサクっとカメラをセットし、画像を建物に合わせてしまう。

(ちなみに幕を被って見える像は暗く、左右上下が反対だ。)

これは楽勝だった。

周りの同級生で苦戦している人がいると、学内喫茶のブランディー入り紅茶(1杯)でカメラセットの代行を引き受けた。

この後、10年ほどして、ゼミ飲み会の席でこの酒紅茶をご馳走してくれた彼が話しかけてきた。

「この間の現場で4×5が出てきた時は困ったよ、青椒君いないし・・・」

で、どうした?と聞くと彼は、

「アシスタントに、お前セットしろと言ってセットさせて、ちょっと覗いて、あとはシャッターだけ切ったよ」

とのことだった。

その数年後、彼と都心の地下鉄駅でばったり再会したが、彼は締め切りを過ぎているということで足早にどこかへ去っていった。

さらにその後しばらくして、彼は実家がある某県へ帰ったと人伝に聞いた。

最近は婚礼の集合写真どころか街のどんなところでも4×5のカメラは見なくなった。

私がもう一度、トヨビュー45を触る日は来るだろうか、ブランディー入り紅茶をご馳走してくれた彼は元気なのだろうか。

ふと、考えたりする。

(めぼしいレビューが個人ブログしかなかった)

hello.ap.teacup.com

リコーGR3までのカメラのはなしのつづきその6

f:id:Greenpepper:20210104223324j:plain

私は学生時代、なぜか自分には写真の才能がないと決めつけ、商業写真家を目指そうとしていた時期があった。

学校がある時期は土日に結婚式場、春休みは商品カタログのスタジオへアルバイトに行っていた。

門前の小僧なんとやらで、機材の名称や扱い方はどんどん覚えたし、なにせ当時は写真を撮ることは好きだったので撮影方法を習得するのも早かった。

そんななかで苦手な分野もわかってきた。

モデルと商品(ブツ)を撮るのはどうにもダメだった。

被写体というよりは、フラッシュ(ストロボ)の扱いがどうにもならない。

なぜストロボが苦手だったかというと、目をつぶってしまうのだ。

といっても、記念写真で目をつぶっていて何度も撮り直す、なんてことはない。

少し話は飛ぶが、肉眼はよくできていて、蛍光灯と白熱灯が視界に同居していても、緑っぽくなったり赤っぽくなったりはしない、しかし、フィルムは両方を点灯させたままだと、肉眼で見た感じとは全く異なってしまう。

当時、デジカメは出始めだったが、商業で使える今のようなクオリティの物はなかった。

光線を肉眼で確認し、影をつけたり、フィルムの特性に合わせた色変換フィルター(ゼラチンフィルター)をつけたりしなければならなかった。

この場合は、蛍光灯に合わせた補正フィルターを装着した上で、蛍光灯だけを点灯しシャッターを切る、その後、蛍光灯を消して白熱灯をつけた上で補正フィルターを交換し、再度シャッターを切る。いわゆる多重露光なのだけども、これでは光量が足りなかったり、影が出てしまったりするので、ストロボの出番となる。

ストロボには補助灯がついているが、そんなものでは影の引き方なんてわからない。

前述のようにデジカメがないので仕上がりはポラロイドを「引く」のだけれど、今の「チェキ」よりも写りの悪い代物で、撮影後5分ほど待ってビリビリと剥がすとぼやけた像が見えるだけではっきりしない。

じゃあ、どうするか、ストロボを光らせて、影の引き方を見るのだ。

ストロボを何度か光らせて影の具合を見ることになる。

ストロボ、といっても普通のカメラについているようなものではなく、ジェネレータと呼ばれる機器にケーブルをつなげてストロボを光らせるのだ。

一つのジェネレータで1500wくらいだったと思う。

建材のセットでベランダや庭のような大掛かりなものだとこれを10灯以上光らせる。

まさに、ストロボを焚くのだ。

光った時に目をこらして被写体を見なければいけないのだが、私はどうしても目をつぶってしまう。

目を開いて光の具合が取れないので、ライティングなんてままならない。

婚礼のスタジオもストロボありきだ。

画像加工なんて気の利いたものはないので、花嫁さんの肌はとにかく真っ白に飛ばしてしまうのだ。

ストロボだけが原因ではないけど、商業写真の世界は大学2年が終わる頃には早々に諦めることにした。

今でもあの時、なんとかストロボに打ち勝って、あのまま道を突き進んでいたらどうなっていたのだろうと考えることがある。